創業九十余年 着物と帯の専門店
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  本場大島紬
  ( 奄美大島 鹿児島 )
 
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 大島紬のふるさとは、奄美大島と鹿児島です。高級紬の代表といえる大島紬は、

 テーチ木と泥染めによる独特な、<カラスの濡れ羽色>と、緻密な絣が特徴です。

 経糸、緯糸ともに生糸を使用して織られる大島紬は、本来なら紬織物とは異なるものですが、

 絹のもつ風合い、なめらかさを存分に生かしたその品質は、紬糸を使わない紬として特別の位置が与えられています。
 
 大島紬の人気の秘密は、人間の手と日数をかけて作り出される芸術品ともいえる風格にあることはもちろんですが、

 実際に手を通した時の肌触りやしなやかさ、軽さ、そして着れば着るほど絹味が出てくるという点にあります。

 どんなに高価な着物でも、人間が着てからこそ生命が通うもの。

 大島紬の着心地や丈夫さは、他の追従を許さないものがあるようです。
 
 また、大島紬といえば、独特の絣模様と色合いが特徴ですが、その絣模様と色合いは、

 毒蛇のハブの背中の模様や色にヒントを得て着想されたものともいわれています。


<大島紬の種類>

 泥大島   伝統的なテーチ木と泥染めで染色した糸で織り上げられたもので、地色は渋い光沢があり、
         黒地に薄茶色がかった白絣で模様を 表しています。
 
 泥藍大島  植物藍で先染めした糸を織締加工で絣莚とし、これをテーチ木と泥染めで染めたもの。
         地色は泥染特有の渋い黒色となり、絣部分は藍色で表されます。
 
 色大島    化学染料を使い、地色、絣ともに自由に配色したもの。
 
 藍大島    植物藍のみで染色されたもの。
 
 草木染大島 テーチ木以外の草木を染料にしたもの。
  






 追記:大島紬の簡単な歴史年表を記載してみました。


 生活に密着した着物は時代の流れ、消費者の声に動かされながらも姿かたちを変えながら現在まで生き続けてきたのだと思います。


 1600年代、明船が薩摩の港へ出入りをしていた時代。

 紬とは一般的に縞の組み合わせによる柄しかなく、現在のような絣文様は殆どなかく、
 
 薩摩藩を基点とし南方より輸入される紬を縞紬=大島紬と呼ぶようになったと言われる。

 その地で生産される織物も同様に縞紬=大島紬として呼ばれる。

 1692年(元禄5年)奄美大島で黒糖が生産されるようになると薩摩藩による島民男女共に5才〜60才まで作用夫として労働を強制され家内染織の時間は失われ、

 更に享保5年、島民の絹織物紬着用禁止令の為、高度な技術と時間を要する綾、紗紬、絹織物の自家染織が困難となる。


 1829年(文政12年)綾織に比べ簡単に文様を出す手くくりの絣染が考案され今日の大島紬の原型となる。

 明治維新後、薩摩藩の圧政から開放され、黒糖や大島紬が直接、鹿児島や大阪と取引されるようになる。

 全国への流通ルートを確保した大島紬は従来のいざり機(地機)では生産が追いつかなくなり、明治16年、永江伊栄温が能率的な長機に改める。

 明治28年の日清戦争の勝利による好景気により、更なる需要の急増し、明治34年、手間のかかる手括りではなく、

 絣締め法を研究し手括りに比べ数十倍の生産を上げるようになる。

 大正8年には大正2年に比べ、工場数90倍、職工数15倍、価格51倍に跳ね上がり、産地の名瀬の料亭ではビールで足を洗ったという噂が巷に広がった。

 大正8年の生産反数は奄美で30万反、鹿児島で45万反の紬が生産された。

 昭和16年より太平洋戦争へ突入、戦時下の経済統制、企業整理令により縮小昭和20年の終戦の年には生産量0となる。

 終戦後は、アメリカによる琉球軍政の元、本土との一切の交通を遮断される。

 昭和28年本土復帰

 昭和45年頃、韓国製大島紬が流通しだす。

 ※参考書籍:奄美染織史 茂野幽考氏 著

 


 
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