縮緬 ちりめん
 


 

浜ちりめん

 
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(長浜)
 
 浜縮緬と呼ばれ、古浜縮緬の名で親しまれている長浜は、古くは浜羽二重の産地としてよく知られています。
 
 元明天皇の和銅5年(712年)「近江、越前の・・・・二十一カ国に令して初めて綾錦を織らしむ。」と古事にありますが、

 その後、光孝天皇の仁和3年(887年)「尾張、美濃、伊豆、近江・・・・等の国より絹を貢す。」

 また、絹布重宝記には「浜羽二重は江州長浜より織り出す絹なり、加賀絹よりは格別糸性良し、惣て長浜より織り出す類何によらず上品なり、

 丈は長く染付けは羽二重同様つやのあるものなり。」とあり、平安朝時代における全国48カ国の蚕糸優良度別の記録によると、

 上糸(12カ国)、中(25カ国)、下糸(11カ国)の内、上糸生産国の筆頭産地として長浜の名が歴史に刻まれており、

 これらの文献からも機業地としての長浜の古い伝統がうかがわれますが、また「元文3年京都の織工上野の桐生に来りて縮緬を製する巧みを伝う、

 東国において縮緬を織ること元に始る。

 此の際美濃の岐阜、近江の長浜、丹後の宗山の織工亦縮緬を製出す、皆京都の巧みを伝う。」との記録があり、

 今から二百数十年前の元文年間すでに長浜で縮緬を製織したことがうかがわれます。
 
 ところで今日の浜縮緬の出発は、

 通説によると元文3年(1738年)より14年後の宝暦2年(1752年)に江州長浜町の北郊浅井郡難波村<現在の滋賀県浅井郡びわ村大字>の

 中村林助及び乾庄九朗の2人によって始められたとされています。
 
 現在の長浜では浜縮緬の名で多種多様な縮緬類が生産されており、伝統の特質を生かした製品は広く愛好されています。




丹後ちりめん

(京都府)
 丹後縮緬の歴史にはたくさんの民話や伝説がありますが、風土記によりますと、

 ーーー丹後の中心峯山に近い磯砂山の頂上に井池があり、ここに天女8人が舞い降り水浴びをしていたが、

 近くに住む老夫婦がその隙を見て一人の天女の衣を盗み隠したので、その天女は天に帰れず悲しんだが、

 老夫婦の<自分たちには子がなく寂しいから>ぜひ自分たちの子になって欲しいという願いに負けその家のものとなり、

 十余年、機を織り酒を作り農作に励んだので、老夫婦の家は大いに富み栄えたが、どうしたことか<汝は我が子にあらず、

 しばらくの仮り住いであるからこの家を去れ・・・・>といわれ泣く泣く竹野川筋を下り、竹野郡な奈具社にたどり着きそこに足をとどめたという。ーーー

 この伝説は日本でも最古の「棚機(たなばた)伝説」として、また、「羽衣伝説」の原形ともなり、

 いまも磯砂山麓の大呂には古く「七夕の家」といわれる家がつづき毎年7月7日には「棚機姫」を祭っているのも、

 縮緬の国にふさわしい美しい風習といえます。
 
 「二度と行くまい丹後の宮津・縞の財布が空となる」と唄われた京都府北部の宮津・峯山・網野一帯が、その丹後縮緬の里。

 この地方は大和文化と出雲文化の交流地で文化が早く開け、1200年前の奈良時代天平年間には絹織物も盛んとなり、

 大和朝廷へあしぎぬを調貢し、足利時代には精好(せいこう)や絹紬(けんちゅう)という名品を織っていた記録があります。
 
 丹後縮緬が、今のように独特のシボを持ち、絹の風合いと感触を最高に発揮する織物になったのは

 250年ほど前の享保初年(1716年)峯山の人・絹屋佐平治が、京都西陣の機屋へ入って、秘伝の技術ー糸より、

 糸口の仕掛け、シボの出し方などを、苦心さんたんの末に学び取り、丹後へ持ち帰って今日の丹後縮緬技術の礎を築きました。

 以来、絹屋佐平治は縮緬の父と呼ばれ、その心は里人に受け継がれています。
 
 現在の主な生産品としては、一越・変り無地・パレス・紋綸子・五枚朱子・朱子意匠・紋意匠・縫取り・衿・帯揚げ・風呂敷・駒綸子縮緬などです。




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