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博多織(福岡県) |
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筑前博多ともいい、女の単帯、八寸名古屋帯、男帯などが最も多く織られ、九寸名古屋帯も織られます。 またこの他に、ネクタイ布地、伊達締め、小物等があり、 生絹、毛、化合繊の糸使いによる帯地小物も生産されています。 とっこ博多とはドビー織で、仏具のとっこ(どっこともいいます) を図案化して縦縞に並べた文様を紋織りしたもので、 一本とっことは、帯巾に一本だけ(主として巾の中央よりに)とっこの縞模様を織り出したものをいい、 一巾に三本以上あるものを三本とっことも三献上博多ともいいます。 とっこの文様の他に細い織り縞をまぜるものもあり、又とっこを藤の花、菊の花などにかえたものもあります。 |
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博多献上 |
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五色献上の名 博多織は献上博多とか五色献上とかの名で親しく呼ばれていますが、 これは慶長5年黒田長政が福岡の領主になって博多織を幕府への献上品として納めたため 「献上博多」 の名が生まれたものです。 その後藩では献上品の品質や風格、希少価値を維持する為、織師に扶持を与えて保護する一方、 藩外への販売禁止、職人の藩外移住を禁止するなどし、 藩の作った「織屋株」というのは厳重に十二戸に制限されていました。 献上品は、紫・赤・黄・紺・青 の五色で染めていましたから、五色献上とも呼ばれたわけです。 五調博多節の中にも 「操たてじま命も献上 かたく結んだ 博多帯」 とその“献上”という言葉が巧みに歌い込んであります。 博多織の由来については筑前続風土記を見ると、 「唐織絹、古へ博多に唐船来りし時、習ひて織り出せリ、 其時節は博多に織工の家七十軒ありて織物をして諸国に販げり。 博多にて織る故に博多唐織という云々」と書いてあり 唐船の来たのはただ古えのみで何時の頃か明らかではありませんが、 博多織は今から約700年前四条天皇の頃、満田弥三右衛門が創始したといわれます。 弥三右衛門は博多の津に生まれ、承天寺の開山聖一国師に随伴して 嘉禎元年4月8日博多港出帆の外船で支那大陸の宋の国に入り6年いたが、 織物、朱焼、泊焼、素麺、麝香丸の五種の製法を習得して聖一国師とともに帰国し博多の人々にその業を伝授したが、 織物のみは満田家の家伝として他に教えず、東織、緞子織、呉織、漢織などを織り出したといわれ、 初めの頃の織物は彩紋意匠など全く宋流であったが、しだいに図柄も日本化され、 織り方も改良され年々有名になったといいます。 そして弥三右衛門の没後250余年、末流に彦三郎という人があり宋に渡って楊州広東で織物を研究して帰り、 博多の人竹若伊右衛門に秘技を伝え、 共に改良工夫して琥珀織に似て地質厚く浮線紋もあり柳条もあるという当時としては実にシークな織物を織り出し、 地名をとって覇家台織すなわち博多織という名を付けたということです。 伊右衛門が織り出した博多織は広東織からヒントを得たもので 地質が非常に堅いので反物としてよりも裁って帯に使われる事が多かったので、 伊右衛門はこれに改良を加え、帯地専用の地質と寸法の新製品を創製しました。 これが博多帯の始めであり今から約370,80年前の頃だといわれます。 そして徳川期の初めは帯地の他、緞子、生絹などを織っていたが、 その頃は帯地よりも緞子の方が世間に広く知られ、 生絹はそれにつぎその精巧な味で知られていました。 |
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