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広瀬絣島根県指定無形文化財(島根県) |
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詳細
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<歴史>広瀬絣は文政年間(1818〜29)に、長岡貞子が米子から技法を学んで始めたのが最初とされています。 その後しばらくして、19世紀の中頃には早くも広瀬絣として盛んになり、幕末から明治にかけて、 久留米絣と優劣を競うほど名声は広まりました。 大正に入ると工業生産化が進み、20軒にも及ぶ機業場を有し、 当時、広瀬の大柄、備後の中柄、久留米の小柄と並び称されるほどの代表的な絣として有名になりました。 しかし、これほどの隆盛も、 機械化が進んだ兼価な備後絣が次第に市場を圧迫し、さらに大正4年の大火の打撃もあり、 急速に衰え、戦後はほとんどその姿を消していました。 これを再興したのが天野圭氏で、氏は正藍染の優れた技能を有する天野紺屋を営み、 県無形文化財の技術保持者の指定を受け、 伝統的な手作りの技法を受け継いだ広瀬絣を、じっくりと育て上げました。 |
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<横綜台による絣づくり>広瀬絣の工程で最大の特色は、 “まかせ” という作業があることです。 絵絣の模様は経糸と緯糸のかすり糸によって構成されますが、 “まかせ” というのは、この組み合わせを行なう工程をいいます。 まず経糸は、経綜台にかけて織物の長さや巾を決めます。次に緯糸は緯綜台とい独特の絵台に、必要な本数をかけます。 そして絣になる部分を正確に決めてから、白くなる部分を墨で印をつけていきます。 普通の絵台の場合は、ここで糸を絵台からはずしてしまいますが、緯綜台ではこうして図案を糸に写し、 そのまま台の糸を荒麻で括ってしまいます。 “まかせ” によって作業は、時間と場所の面できわめて合理的になります。 また、図柄の狂いもなくなり、精緻な作品を生み出すことが出来ます。長い伝統の中から生まれた、 広瀬絣の大きな技法といえましょう。 |
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無形文化財技術保持者 天野 圭 氏 |
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